●イースター島の起源 |
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イースター島の位置する南太平洋一帯は地球上でも火山の活動が最も活発な地域とされている。イースター島はその中でも最大級の火山を持つ島である。約170万年前にイースター島の土台となっている岩盤が誕生し70万年前に噴出したマントルによって海上に島として形成された。
イースター島はラノカウ、プアカティキの2つの成層火山と亀裂火山のテレヴァカの3つの火山から成り立っている。20万年ほど前にには火山活動は終わり、海流による漂着や鳥による持ち込み、胞子の飛来などにより植物が入り込んできた。
かつては亜熱帯林が生い茂っていたが現在は背の低い潅木と草地ばかりの痩せた土地となり、あまり植物相として豊かと言える状態ではない。 |
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●イースター島の民族起源〜その壱 |
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イースター島の民族の起源は当初南アメリカからきたとされていた。これはペルーのインカ帝国の文化遺跡ががイースター島のそれと酷似していること、サツマイモなど食物の起源を南アメリカに持つものが存在する、などを根拠としている。
ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールはこの説を証明するため、丸太を組んで作ったいかだ「コンティキ号」を使いペルーのカヤオから出航。風と海流に乗っておよそ100日でタヒチに近いトゥアモトゥ諸島に漂着した。これにより南米からの移民は可能であるということが一般的に知れ渡った。 |
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●イースター島の民族起源〜その弐 |
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ヘイエルダールによって民族の南米渡来説が唱えられて以降に東南アジア渡来説という新たな説が出てきた。根拠としてもさまざまなことが挙げられている。
文化遺産にインカ以上の類似点が見られること、住居や斧など生活に関しての類似点、イースター語が東南アジア・ポリネシア圏の流れをくんでいると判断できる点、そしてなによりもイースター島民族の血液型遺伝子が東南アジア・ポリネシア圏の民族と同じ構造であり、南米のそれとは全く異なっているという点である。
このことから現在はイースター島民族は東南アジアを祖としポリネシアを経由して渡来したというのが定説とされている。 |
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●イースター島の統治 |
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イースター島への入植は4世紀ごろにまで遡る。彼らは彼らの言葉でイースター島を「ラパ・ヌイ」(大きな島)と名づけ絶海の孤島であるイースター島に驚くべき文化を発展させたのである。
6〜7世紀になると幾つもの血族グループに分かれて王に統治されるようになった。そして各血族の神化された先祖がモアイという形で祭られるようになっていった。ここにモアイの建造が始まったということである。
しかし人口が増え、血族間の権威闘争が激しくなってくると権威を示すためモアイは巨大化していった。そして終末期にはモアイを破壊する戦い「フリ・モアイ」が勃発しモアイ文化は終焉を迎えることとなる。 |
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●モアイの発展と退廃 |
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モアイは6〜7世紀ごろから血族によって結びついた民の祖先信仰をもとに「アフ」と呼ばれる祭壇に祭られる形で建造が始まった。そして島の発展に伴い人口が増えてくると、だんだんとモアイのつくりは複雑化、巨大化していった。
モアイの建造に従事する者と農業・漁業に従事するものの比重が狂い、島全体が食糧難に陥ってくると部族間のサバイバル的な争いに発展し、部族のシンボルであるアフやモアイを破壊しあう戦いにつながっていった。初期のモアイの作りは単純であったが、次第に頭に「プカウ」と呼ばれる髷を配したり、ふんどしや刺青を施すようになっていった。
また大きさは初期は2メートル程度であったものが3〜5メートルとなり、15世紀ごろには10メートルを超えてくるようになる。終末期には実に20メートルを超えるものも作られている。 |
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●イースター島と西洋文化 |
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イースター島と西洋文化の最初の出会いは1722年4月6日。オランダ人のヤコブ・ロッヘフェーンがこの復活祭の日に訪れたことに因み島は「イースター島」と名づけられた。
ロッヘフェーンがイースター島に着いたとき島民は祭壇でモアイに祈りを捧げていたという。その後、1774年に有名なクック船長が訪れたときには多くモアイはすでに倒されていたようだ。1838年にフランスのデュペチ・テュアルが立っている9体のモアイを確認したことが記録として残っているが、それを最後に島中のモアイはまもなく倒されてしまったようだ。
また1859年と1862年にペルーの奴隷商人船がやってきて島民を約1000人連れ去った。そのうち生きてイースター島に帰還したのはたったの15人。その上天然痘や結核などを持ち込んだため島の人口は100人あまりに激減してしまった。この際、イースター島の歴史を知る長老や司祭が亡くなってしまったため、モアイやその他の謎は闇の中に葬られてしまったのである。 |
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